最終更新日 2021/06/18
400年以上の歴史がある唐津くんち
一般的に日本では伝統の祭りや催しでものを運んだり力仕事を繰り返す動きの際に、「よいしょ、よいしょ」などと掛け声をかけ、団結の意思統一を生む力にもなります。江戸時代の駕籠かきは「エイホ」や「エイサ」、他の地方の祭りでは「オイサ」や「オッショイ」など様々です。
唐津くんちはどうでしょう、その掛け声は独特で「エンヤ、エンヤ」です。高校野球で唐津商業など唐津の学校が甲子園に出場すると、アルプススタンドから必ず「エンヤ、エンヤ」の応援が聞こえてきます。
そんな唐津くんち、400年以上の歴史があり、755年創建の唐津神社の収穫に感謝する秋の大祭として始まったと伝えられます。
14台の曳山が唐津を巡行
当初は曳山などはありませんでしたが走り山の時代を経て、1819年、刀町の町衆がシンボルとして初めて赤獅子を制作し奉納すると、他の町々も独自の曳山を1876年までに次々と拵え、合わせて15台がお目見えするという唐津くんちはまさに豪華絢爛、華やかで盛大な一大イベントに発展しました。
のちに黒獅子は損滅し今では14台の曳山が毎年11月2日、3日、4日に登場、毎年約50万人の観光客が押し寄せます。2日はいわゆる前夜祭の宵山で、それぞれの曳山は飾り提灯に彩られ華麗に街を巡行します。
3日は唐津神社の唐津大明神が御旅所へ御神幸される日で、神輿を先頭に14台の曳山が鐘、笛、太鼓の音とエンヤの掛け声の中スピードを速めたり緩めたりしながら市中を巡ります。
そして御旅所の西の浜にその長い行列が入っていきます。ここはその昔唐津神社の御神体が流れ着いたとされる聖地で、昭和30年代にここに小学校が立ったため海は校舎にさえぎられて見えなくなり今は早稲田佐賀中学高校が普段第2グランドとして使っています。
この西の浜への曳き込みがこの日の最大の見所で曳き子たちには最大の難所となります。重さが2トンから4トン、高いものでは7メートルもある曳山が砂に足や車輪を取られながらゆっくりとゆっくりと時に力技で進む姿には、見物客からも掛け声が飛び見ていても力が入ります。そして14台の曳山が砂の上に東西に分かれて並ぶ姿は壮観で数万の観衆を魅了します。
最終日の4日は御神幸はなく町民の祭りとして町内を曳き廻りますが、夕方には展示場に納められ来年のくんちまで長い眠りにつきます。
2016年に世界遺産に登録
曳山は一閑張りと言われる工法で、まず木組み、粘土の原型や木型を作りその上に和紙を数百回塗り重ね、麻布を張り、何種類もの漆で塗り上げ金銀などの塗装を施して完成します。各町内では定期的に修理修繕をし、美しく生まれ変わった曳山にはその年のくんちで注目が集まります。
昭和33年に14台の曳山が佐賀県の重要民俗文化財に、昭和55年には唐津くんち自体が国の重要無形民俗文化財に指定されました。さらに平成28年ユネスコの無形文化遺産にも指定されています。
唐津くんちの3日間以外はすべての曳山は原則として唐津神社の隣にある曳山展示場に並んでいます。場内に入り左に曲がるとすぐに1番曳山の赤獅子が迎えてくれます。順番に14の曳山がガラス越しではありますが入場者を悠然と見下ろしています。
獅子以外には兜、鯛、亀、鯱など各町のシンボルが大きな存在感で据えられています。各曳山はこれまでに何度も海を渡っていて、5番曳山の鯛は1979年にフランスへ、2012年には香港へ、7番曳山の飛龍は2012年に韓国へ、8番曳山の金獅子は1996年にハワイへ、10番曳山の謙信兜は1980年代にLAとオランダで勇壮な姿を披露しています。
一つ一つの曳山に詳しい説明がされていて、大きなスクリーンには唐津くんちの動画が映し出され、見ていると11月が待ち遠しくなります。
是非見たい唐津くんち
くんちの準備は、9月に入ると装束の作成やくんち料理の食材の調達、10月からはお囃子の練習などが本格化します。高校を卒業後唐津を離れた人たちもくんちに合わせて里帰りすると言います。盆や正月よりもくんちの季節に帰省する人もいるほどです。
また、祭りが近づくと各町内ではくんち料理作りが大詰めを迎え、中心となる家々では徹夜で約200人分を作り上げるそうです。祭りの関係者をはじめ、取引先、親戚、友人知人など様々な人達が一同に集まり、代表的なアラの煮付けや栗おこわ、ざる豆腐、ちまきなど10種類以上の料理が何枚もの大皿に盛りつけられ長テーブルに所狭しと並びます。当然出費もかさみますが、日頃お世話になっている人達をもてなす習慣も大事な行事の一つです。
唐津くんちの曳山は唐津市内のメインストリートを東西に走り回ります。スピードが出る直線コース、技術を要する曲がり角、どこで見物しても見応え十分です。また、3日の御旅所御神幸は、西の浜への曳き込みは正午から、曳き出しは午後3時からです。